哀悼者の朝、Mourner's Morning
9.11遺族の手記、9.11 Families For Peaceful Tomorrows
(原文のVoices of PT)
2003年9月14日
デイビッド・ポトチ、David Potorti、
翻訳:寺島隆吉+岩間龍男、公開2003年9月24日
世界でどのように多くの人々が車を持っている
「9.11家族の会」のHPの記事にすっかり夢中になってしまい、また翻訳したので送ります。兄を失ったデイビッドという人の手記の翻訳です。9.11のテロが何故起きるのかまでには立ち入った記事ではありませんが、犠牲者の遺族としての切々たる思いは、胸を打つものがあり、夢中になってしまった原因です。アメリカの国内の雰囲気も伝わってきて興味深いです。アメリカの侵略戦争反対の声を広めるには、この会の記事は説得力があると思いました。(岩間龍男) |
2001年9月11日、私の兄は世界貿易センターで死亡した。この最も個人的な死は、私がこれまで知っているどの人の死より、公開されたものとなった。
ペドロはどのような現実の世界にあった?
私の兄の死の瞬間を、それが起きている時に、あるいはビデオで、何百万人もの人々が体験した。その日に目撃した暴力に私たち皆が恐れおののいている間に、その炎の中で素朴な記憶が消えていくのを私は見た。彼が10年間生活していたロングビーチでの週末、ぶどう酒試飲の仕事のためのノース・フォークへの旅、夜のパーティの船の上での魚釣り、北部の州での家族との休日、そして私たちはイタリア人であることから多くの食事を食べた。
私の言動は、私の母の兄の死に対する反応に影響を受けている。その反応とは「私は他のいかなる母親にも私が今味わっている苦痛を感じさせてはならない。」というものだった。それは私の兄の人生を名誉あるものにしたいと私が考えた動機となった。このことをどのようにするのかについては、すぐには明らかにできなかった。
しかし数ヶ月が過ぎると、ジムの死に対する世間の反応についての何かが、私にはしっくりとこなかった。9.11の犠牲者の人間性?彼らの名前、顔、物語?がとてもよく知られるようになった一方で、私たちの社会は他の罪のない犠牲者の伝統や歴史や人間性についてますます気にかけることがなくなったようであった。
ツイン・タワーには不法就労者がいた。タリバンによって非人間的に扱われたアフガニスタン人だ。イスラム教徒やアラブ人はテロリストとしてステレオタイプ化されていた。怒りや不寛容が、私たち皆が深く感じた苦痛や恐怖を覆い隠してしまったようだった。そして沈黙の文化[国の政策に異議を唱えない文化]によって、私たちのほとんどはこれらの苦痛や恐怖の感情について話すことができなくなってしまった。
"我々の世界は暴力の自由になることはありません。"
相手の側の人々も、この同じ態度[怒りや不寛容の態度]であり、まさにその物が私の兄の殺人を引き起こしたのだということを私は認識するようになった。その時点で私が最も必要だったものは、そのような態度が他の人々の兄弟や姉妹や両親や子どもたちの死に何とかしてつながらないようにする機会だった。[アメリカが他国を攻撃して犠牲者を出さないようにする自分の機会]
だから私は失うものは何もないという思いに力を得て、地方新聞やインターネットのエッセイで遠慮なく話し始めた。どのような私の「公開での発言」に対する反発も、弟を失った苦痛に比べればたいしたことはないだろう。皮肉にも私の肉親の死が公開されたという事実は、私に権威を与え私の言い分を聞いてもらえる機会を得た。
私ははじめて、教会やイスラム教寺院や高校や大学で戦争に反対する話をした。そして私は遠慮なく話し出したので、攻撃を受けやすくなった。しかし、9月11日に愛する者が亡くなった他の家族の人たちが私に接触してきて、自分たちの考えは私の考えと同じだと言ってくれたので、私はどうにか強くなることができた。
この支援によって私は話を続けることができた。特にラジオのトーク番組やテレビに出演すると必ず批判に直面するからだ。ラジオ局に電話してきたある人物によって、私は「裏切り者」ジョン・ウオーカーにたとえられた。というのは、私はアフガニスタンでの米国の爆撃の有効性に疑問を差し挟んだからだった。私は「見当違い」で「愚直」で「現実の世界に生きていない」とみなされた。米国史の中で最悪のテロ攻撃で兄を亡くし45歳のローンを抱える父親を描写するには、それらの言葉は異様なものだった。
それでもそのような圧力の下で、私は自分の動機に疑問を持つことがあった。特にあるラジオ番組製作者が意地悪く「脚光を浴びる瞬間」を得るために兄の死を利用していると私を非難した時にそのようなことを思った。私は兄の死を利用したのだろうか。私のしていることを兄は認めてくれるのだろうか。
認めてくれるだろうと今私は思っている。他の人々とのつながりの中で私が見つけた力が、「平和な明日を求める9.11遺族の会」へと導いていった。9月11日に肉親を亡くした85の家族と2000人の支援者がいる団体である。この団体は戦争に代わる解決策について遠慮なく意見を述べることに全霊を傾け、弟が死んだことに苦しむ私に真の平和を求める気持ちを与えてくれた。
私たちのグループの会員は28の州とアフガニスタンとイラクを含む8つの国で講演をしてきた。広島で被爆した生存者や、イスラエルとその占領地で子どもたちを亡くした親や、アイルランドからバリ島までテロの犠牲者と私たちは接触してきた。私たちが学んだことは、どの場所の人々も同じ事を望んでいることだった。すなわち、安全や子どもの将来や生活し生きる場所や十分な食べ物を望んでいる。
2001年9月11日に死んだのは、私の兄だけでなく米国の寛容さや平和への献身の伝統と歴史である。私の兄の命を大切にしたいと思う一方で、このこともまた大切にしたいと思ってきた。これが兄の思い出を大切にする最良の方法であると思う。
デイビッド・ポトチはカリフォルニアに在住し、『平和な明日を求める9.11遺族の会:私たちの悲しみを平和の行動へ』の著者である。
この手記は2003年9月14日、日曜日にロングアイランドの『ニューヨーク・ニュスデイ』で公表された。著作権2003ニュースデイ有限会社
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