ローザ・パークスのこと
時は、1955年12月1日、
アメリカの南部
アラバマ州のモンゴメリという町。
縫い子の仕事からの帰り、ローザ・パークス(41歳)は、
バスの後方の黒人専用席に座っていた。
白人が数人乗り込んできたが、、白人専用席は満席だった。
そういう時には、いつものように、白人の運転手は
数人の黒人に席を立って、譲るように言った。
不平ながら従うほかの黒人を尻目に、
彼女は譲らなかった。
運転手は声を荒げたが、彼女は頑として立たなかった。
彼女はその日、「人種隔離政策に違反した」
という罪状で逮捕された。
バスに乗っているている41歳のローザ・パークス
これが歴史博物館に拡大展示されている。
後に、なぜ、この時席を譲らなかったのかを
たずねられて、彼女は言ったものだ。
「だって、私、とても疲れていたのよ。
14時間も働きづめだったし。
それにこんなの不公平だって、ずっと思っていたし」
その頃は、バスはもちろん、レストラン、ホテル、
公共のトイレ、学校などは白人用と黒人用に
、厳しく分けられていた。
何が今日起こったのか?
黒人専用は、汚くて、品質も設備も悪かった。
職業も差別されていて、重量動をしても、
給料は安かった上、高い教養を身につけても、
それに見合う職業には、なかなかつけなかった。
それまでにも、小競り合いは多く起こっていたが、
機が熟していたというべきか。
彼女の逮捕がきっかけとなって、、
マルティン・ルーサー・キングJR牧師たちが立ち上がった。
いわゆる「公民権運動」の始まりだった。
ローザ逮捕の抗議のため、黒人民衆たちは
一致団結して
モンゴメリ市内のバスボイコット運動を決めた。
当時、バスは一番安い公共の市民の"足"だったので
黒人達にとってこの選択は自分たちの首をも
締める厳しいものだったが
当然、バス会社にとってtもこれは手痛いことだった。
彼らは遠くの職場まで何時間も歩いたり、
古い自動車に乗り合わせたり
自転車を使ったりして凌いだ。
1年後(正確には382日後)
とうとうバス会社は倒産の憂き目にあって、
音を上げ、最高裁判所は
「バスの人種隔離政策は、憲法違反である」と認めた。
しかし。
これを機に盛り上がりを見せた公民権運動は
やがて、キング牧師の暗殺という、痛ましい結果につながった。
アメリカの歴史に負の遺産として残る黒人たちの歴史。
奴隷として、アフリカから動物以下の待遇で
略奪された彼らの祖先たちの
苦難の歴史。
未だに残る、差別と偏見。
アメリカを訪れる度に、私はかいま見てしまう。
イスラエルはどこにあるのでしょうか?
さて。
後日、「アメリカン・アメリカン歴史博物館」を見学した。
黒人が奴隷としてどのようにして連れて来られたか、を
順次見ていく。
ガレー船での様子は目を覆うばかりの場面も多かった。
私はふと
昔見たテレビドラマ「ルーツ」を思い出した。
クンタ・キンテの祖先の歴史。
非常な感動を受けたので、ビデオも見たっけ。
公民権運動のところには
あのローザ・パークスのバスでの写真が拡大展示されていた。
ツアーの終わりに、案内してくれた学芸員の初老の男性に
たずねてみた。
この博物館に入ったとたんに目についた、案内デスクの
小冊子について。
それらは無料でどうぞ、というものだった。
「あのテーブルに『American Lagacy』という
雑誌がおいてありますね。
少し古いものが残っていたら、
いただきたいのですが」
「いつのですか?」
「忘れました。
でもローザ・パークスの大きな写真が表紙でした」
「しばらく待っていてください。
倉庫でさがしてみましょう」
生徒たちや、ラブさんには
5分くらい待って欲しい旨言う。
しばらくして、彼が戻ってきた。
手にしている数冊の雑誌には、まぎれもなく
あのローザ・パークスの大きな笑顔。
American Legacyの表紙
「よかったら、全部お持ちください」
「ワァ、ありがとうございます」
どこに行ったレイフeirsson expolre
しっかりとその雑誌を胸に抱きしめ、感謝の握手。
少し私の思いを説明したら、彼は深くうなづいて微笑んでくれた。
キャッホー。
ローザ・パークスはその事件の後、
ここ、デトロイトに移ってきた。
夫とともに、ローザ・パークス記念事業として、
アフリカン・アメリカンの
歴史をたどる、ツアーを企画、実行している。
自分たちの祖先たちがたどった、長く重い歴史を
風化させないように、毎年、高校生たちが
そのツアーに参加しているという。
最近のローザ・パークス
私が彼女にこだわったわけは2つ。
一つ目は、これが「差別と人権」に根ざす問題であったこと。
これは人種、性別、宗教、年齢など、
人間の潜在的コンプレックスとも深く関わってくるので、
私は多分、永遠になくならないのではないか、と
考えているが、でもその差別を不当だと
声を上げていくことは大切だ。
むしろ、「知らないこと」が、差別の構造を
増長させていると思えることもある。
知ることからまず、始まる。
内部にアンテナを持っていて
ピンと張っていれば、響くものには反応できる。
ローザ・パークスとの雑誌での出会いも、
その一つだったと思う。
『目や、髪や、肌の色の違い、性別など、
つまりその人自身の責任でない
ことで、差別をしない社会こそ、
文化度の高い成熟した社会である』
と、いう文を何かで読んだことがある。
そういう社会を目指したい。
二つ目は、この人が女性であったこと。
当時の男性優位社会、そして人種差別の状況を思っても
彼女の勇気ある行為は特筆すべきものがあるだろう。
彼女に会えはしなかったが、このデトロイトで現在
暮しておられるということを知って、何となく
心に満ちてくるものを感じた。
その数冊の雑誌を抱いて、みんなの待つ車に走った。
親指をあげてグーのサインをしたら、運転席のラブさんが
とびっきりの笑顔をかえしてくれた。
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